おもいがけないこと

 おもいがけないこと、はいつだってすてきです。なんの気なしにのぞいたポストに見つけた私信、配達員さんが手渡してくれる小包、よく出向くカフェでの偶然の再会、直売所で見つけたふきのとうにクレソン、あるいは曇り空の日に家族の入れてくれた熱い紅茶。

 先週の日曜日には、娘が庭や畑、近所の小道であつめた花で花束をつくって渡してくれました。ひとつは過剰なほどの量の菜の花(草で結んだところに椿の葉が押し込んである)、もうひとつは新聞紙にくるまれた水仙や南天の実。こんなことも、思いがけない瞬間のひとつです。

 今週はどんなことが起こるだろう、としょっちゅう思っています。来月には何が待っているのだろう、そして今年はどんな一年になるのだろう、とも。

 振り返ってみると、生まれ育った神奈川を離れてから10年、どの年だって「まさかこんなことになるとはおもわなかった」ということで埋め尽くされていて(なんと引っ越しは7回!)、予定や準備、つもりはほとんど役に立たないとの感は、毎年強まるばかり。

 大幅な予定変更や当てがはずれることは日常茶飯事。逆に「自分たちの意志では到底たどりつけなかった」幸運に恵まれることも少なくありません。

 今週末、どうやって過ごすかもその瞬間になるまで見当がつかず(こどもたちの体調、おとなの都合、突然降ってくるできごとなどすべてが予測不可能)、ならば「予定は未定」をスタンダードにしてしまおうと思ったのでした。つまり、「予定外は想定内」、「わからない、ということがわかっている」ということに。

 ある晴れた日の午前中、真冬には似つかわしくない強い日差しの下で畑を開墾していたとき、ふいにこう思いました「”おもいがけないこと”はもしかしたら畑しごとに重なるのかもしれない」と。

 一生懸命耕して、祈るような気持ちで種まきして、離れた場所から水を運んできて、じょうろで撒いて。でもその畝(うね)からはいつまでたっても芽が出ない。たくさん収穫しようとはずむ気持ちで植えた100個のじゃがいもも、雨降りの多かったせいで不作。一年分のにんにくと玉ねぎの自給を!と意気揚々と作付けした一角に目をやれば、ひょろひょろとした葉がいかにも弱々しい様子で並んでいるばかり。

 一方、取り残した人参がずいぶん大きくなっていたり、植えたつもりのない里芋やじゃがいもが威勢よく育ち、知らぬ間にこぼれた小松菜の種から元気いっぱいの葉が伸びていたり。さらには、あきらめかけていた苗が突然勢いよく成長することもあって、こちらの思惑や都合はおかまいなしです。

 そんなことを土を掘り返しながら考えていたら、この「先の読めない畑」のありようそのものが、あるいはとても大事なことを教えてくれているような気がして、これからも気持ちのおもむくままに、耕したり、種まきしたり、がっかりしたり、喜んだりしてみよう、と思ったのでした。

 予定通りにいかない日々は、もしかしたら「おもいがけず届く小包」なのかもしれません。ひらいてみたら、大きなろうそくや、レモンケーキや、こころにすっと届く言葉のつらなりが、やわらかなひかりとともに、詰められているのです。