秋の実りと投資講座は矛盾しない

 くらしの中には、いろいろな場面がある。繰り返してきたことであっても毎回あたらしい。そしてちいさな思いがけないことがそこここにちりばめられている。電話が鳴ったり、手紙や小包が届いたり、玄関先で「こんにちはー」と声がしたり。

 そんなことが折り重なって、今日ができて、そして過ぎてゆく。

 わたしのくらしの中の軸となっているのは「たべること」。週末になると家族5人が一日三食、それにこどもたちのおやつが加わる。そのたたみかけるような準備や後片づけを思うと、正直気が重くなることも多い。

 それでもどうしてだろう。買ってすまそう、という発想がない。袋菓子の買い置きがあると便利だな、と思いつつも買うことはほとんどない、というかむしろできない。

 それでうまくいっているのならいいけれど、「おやつとごはん、どうしよう」と週末ごとに途方に暮れているのだから、これはまったくもってアンバランスである。

 4連休の二日目、そんな我が家に秋のめぐみが届いた。今年はじめての栗、お手製の栗きんとん、それから大鉢いっぱいのお赤飯!

 お赤飯には南天の緑が添えられていた。この方のくださるものには、いつも季節の一枝がそえられていて、はっとする。こどもたちはそんなことにはお構いなく、めいめいの茶碗をもってきて、お赤飯を山盛りにして食べ始める。

 この季節になると毎年くださる栗きんとんは、もはやわたしたちにとって「なつかしの味」になりつつある。「また今年も」と感じられることのうれしさといったらない。

 かたい栗の皮をむくのも1年ぶり。これからはじまる栗ご飯の日々。季節がめぐってくること、繰り返される手仕事。わたしにとって、それらはたいそうドラマチックなことに思える。

 自然の近くで暮らすこと、周りの方々との豊かな交流があること、それがたとえ質素な食卓であっても、自分の手でなんらかのものを生み出せること、これ以上のしあわせがあるだろうか。

 午後にはZOOM(ビデオ通話?)で投資講座の第2回目。「投資」なんて知識もないし、興味をもったこともなかったのに、ひょうんなことから学ぼうという気になった。

 わたしの先生は14才。友人の息子さんで、はじめて会ったときは3才だった。時を超えて、場所を超えて、文明の利器の恩恵を得て、思いがけない世界に踏み込みはじめたそのことに、わくわくしている。

 「投資」というと「単なるお金儲け」や「マネーゲーム」のようなイメージがある(わたしもそう思っていた)。

  けれども、ちょっと考えてみると、「そもそもお金ってなんだろう」「お金ってどう使えばいいんだろう」「お金をどう循環させればよりよい社会になっていくのだろう」と疑問がつぎつぎと湧いてくる。

  「今日はオンラインで証券口座を開設しよう」と準備をしてくれていた14才の先生に、開口一番「ちょっと質問があるんですけど」と疑問を投げかける。

 「コロナ以降経済の動きをどう見てますか?」
 「経済と株の動きってイコールで結べるんですか?」
 「そもそもどういうときに株価が上がるんですか?」
 「株の売り買いをしているひとは与党支持なんですか?」
 「銀行にただ預金しているだけだとなんでいけないんですか?」

 尽きることない素朴な疑問を投げかけること1時間。話はおぼろげにしか理解していない政治の領域にもひろがり、14才の先生は困惑しながらも、一生懸命説明してくれる。たのしくてたまらない。

  その日の目的は「オンライン証券会社の口座をひらく」だったことに途中ではっと気づき、アドバイスを受けながら、おぼつかない手つきで手続きをすすめ、無事口座開設までこぎつけた。

  「投資」というものをやってみよう、とわけもわからないのに、無謀にも思い立ったあの日から、すでに、ずいぶん遠くまで歩いてきたな、と思う。もちろん実際の経験や得た知識ではなくむしろ「意識」のこと。おそらく、わたしにとって「投資」そのもの自体は目的ではない。むしろ、もっとひろく「経済」や「お金」や「社会」について知ること、そして自分なりに考えること。

  そして、自由に生きていくための様々な選択肢を手のひらにのせて、吟味して、「自分の今の価値観だったら、これかな」と選ぶこと。現状を理解して、個人としてのささやかな、そして社会全体という大きな未来をつくってゆくイメージ。

 思い込みやイメージはいったん横に置いて、まっさらな気持ちで取り組むこと。その気持ちよさは吹き抜ける風に似ている。きっとどんな分野でもいいのだと思う。大事なのは「やってみよう」と感じたタイミングを逃さないこと、人に伝えること(「これがやってみたい」と意思表示すること)。そうしたことで、流れは生まれ、きっと自分にぴったりの先生と出会うことができる。

 理想的な先生は「ぜひともこのひとから教わりたい」と思わせてくれる人。そこでは年齢も、能力も、経験も、関係ない。あるとすれば、縁。それから、「教わりたい」「教えてあげたい」というニーズの合致。

 土や、種や、実りに圧倒的な魅力を感じながら、これまで興味を持っていなかった経済やテクノロジーのことを学んで行くこと。このふたつはなんとなく矛盾するように思っていたけれど、そんなことはない。むしろ、片方が、もう片方を支える、両輪のようなものなのかもしれない。そんな予感のする休日の夕方なのだった。