2020/6/23
小包は、届くのも、贈るのも好き。これまでどれだけの小包を送っただろう。気づくと、いつの間にかいくつか自分なりのルールができあがっていた。ルールとはいっても「絶対守らなければいけない」とものではなくて、むしろ、ゆるやかな枠組み、大まかな指針のようなもの。それに沿って準備してゆくと、自然に自分の満足ゆくものになりやすい、という程度のもの。
箱はリユースのもの、詰めるのは身の回りにあるものを見つくろって、緩衝材は新聞紙、できればちいさなブーケを入れる。メッセージを書く(封筒や便せんは使わずに、小学校の給食献立の裏とか、段ボールの切れ端をつかう)、それとは別にたのしい読み物が手元にあれば入れる(心打たれた新聞記事、高知らしいたのしい記事、観たい映画のちらしなど)。
先日友人に送った小包には、仕上がったばかりのあんずジャムとインドから持ち帰ってきた紅茶、それから紅茶について書いた読み物を詰めた。それから紫がかったヨーロッパを思わせるにんにくと、うつくしい色合いの小ぶりの赤玉ねぎをいくつか。ブーケは、庭に育ったローズゼラニウムとコリアンーダの実を束ねて。ローズゼラニウムは香りが強く、箱をあけると中に入っているものを目にするより前に、香りが飛びだす、という仕掛け(うまく行っているかどうかはわからない)。最後に新聞紙と手紙をのせて(この日はお引越しのお祝いメッセージだったので、奮発して無印のらくがき帖から一枚)、その上に封がわりに黒文字の枝を束ねたものをのせた。これは削ると清々しいお茶になる。
畑をやっているひとならば、自家採取した種なんかもリユース封筒に入れて、表に「コリアンダーの種」とか「ローゼルの種」と書いて小包に忍ばせる。遠くに運ばれた種が、人の手から手へと、思いがけずひろがってゆく可能性もすこし考えながら。風に乗って飛んで行くたんぽぽの綿毛みたいに。
いつだったか、夫の知人から小包が届いた。年配の女性で、わたしたちが畑をやっていることを知って、ご自身が作られているヤーコンと菊芋の種を送ってくださったのだった。手書きのお手紙が同封されていて、そのうつくしい言葉遣いからお人柄がしのばれた。お会いしたこともないのに、なつかしいような気持ちがした。
手紙には、植え付けの時期や保存方法などが丁寧に書かれていたと思う。ヤーコンは数年育てて、うっかり種継ぎを途絶えさせてしまったが、菊芋は土がよほどよく合っているのか、驚くべき繁殖力で、毎年つぎつぎと芽をだし、秋になって掘るとざくざくと小判のように芋がでてくる。芋はそのまま種になるので、いろいろな人にお分けした。
種はたくさん採れるけれど、どんなに広い畑を持っていたって、とうてい全部は蒔ききれない。きっちり瓶に入れて冷凍保存すれば数年もつとも聞くが、通常は翌年になれば、発芽率もぐっと下がる。残された道はただひとつ、人に手渡すこと。
小包は、ささやかであることがいちばん大事。特別なことをしなくても、回りを見渡せばなにかしらあるはず。そういえば、以前届いた小包の中に、チョコレートが一枚入っていたことがあった。「ゆっくりとした時間にどうぞ」というメッセージが添えられていた。上質なフェアトレードチョコレートではあるけれど、お店で見れば、ただのチョコレートである。それが、友の手で選ばれ、箱に詰められ(あるいは封筒に入れられ)、わたしの手元に届いたときには、それはチョコレート以上のなにかに変容している。物語が、チョコレートに乗っているのだ。
先日届いたエクスパックには、なんと友人手製のスコーンが入っていて仰天した。なるほど、その手があったか!そう、もうひとつ大事なのは驚きや意外性。普通だったら宅急便でおくるところをエクスパックで送るという発想にノックアウトされた。
小包には無限の可能性がある、一箱を仕上げるたびににそう思うのだった。