雑草と野草、薬草のあいだで

 春はさまざまな野の花が咲くから、畑のあちらこちらを見て回り、摘み取っては乾かしている。去年はれんげの花、今年は母子草(ははこぐさ)と年によって生えてくる野草も、こころひかれるものも違うのがおもしろい。

 今年のきっかけはキランソウだった。植物に詳しい方から、地面に這うように咲いている深い紫色の花がそれだと教えていただいた。そしてさらに「もし飲んでみたいのだったら」と乾燥させたものを瓶に詰めて持たせてくださったのだった。

 「どこにでも生えている」というキランソウは、様々な病気に対してすこぶる薬効が高いという。いわく「病気で死にかけている人でもこの草で生き返る」(!)とか。さしあたって体に困ったところはないけれど、さっそく煎じて飲んでみたところ、おそろしく苦く、「医者殺し」と呼ばれるほど何にでも効く、と言われているのがわかるような気がした。

 それにしてもこの苦みはどうしたものか、とても好んで飲む気にはなれないと困惑していたところ、ふと思いついて水筒に一本のキランソウを入れ、やかんに湧いていたお湯を注ぎ、待つこと数分。おそるおそる飲んでみると苦みはごくわずか、葉と花の香りがうっすらと感じられ、この淡さの中に、キランソウの本来のありようが映されているようだった。

 なるほど何か特定の目的があってのことなら煎じ薬とするのが最も有効かもしれないが、その花の持つ、何と言うか、すばらしさ、のようなもの(呼び方はいろいろだけど、エネルギーとか、波動、と表現しても)を体に取り入れたい、というくらいの気持ちなのであれば、むしろこの一輪水筒方式がよいのかもしれない。

 もちろん、必ずしも水筒である必要はなく、ティーポットでも、カップに直接でもよいのだけれど、保温性の高い水筒なら、一度入れてしまえば飲みたいと思ったその都度ふたをあけるだけで飲めるのと、あたたかな温度のまま風味の変化が楽しめる、という利点がある。

 いきおいキランソウが身近になって、畑で探してみるといくつかみつかったので、洗って、干して瓶につめ、同時に目に入った母子草も摘み取ったのでした。

 母子草はきっとだれでも見たことのあるの野の花で、春の七草のひとつ「ごぎょう」でもある(花が咲いていないときは見つけにくそう)。かつてよもぎが使われる前には、母子草が草餅の材料とされていたとか。

 全体がうっすらと白い毛でおおわれた母子草をざるに並べて干し、あともうすこしで完全に乾燥するというところで、待ちきれずに一本をグラスに入れてお湯を注いだところ、 揺らぎながら眠っていたものが目覚めてゆくように、野の力に満ちた 、あざやかな黄色のお茶が立ちあらわれたのでした。

 幼いころから特にこれといった感慨もなく、単なる雑草として目にしていたうすくけば立った小さな花が、今年とつぜんに際立った存在感をはなちはじめた不思議を思いつつ、以来、目覚めてすぐ、寝間着のままで家の裏の急な石段を駆けのぼり、朝露に足元を濡らしながら咲いたばかりの母子草を探してまわるのでした。