2020/8/11
お茶漬けというものがじつはおいしいと知ったのは、24才のときだった。それまで、お茶漬けは「永谷園」の袋を開けて、お湯を注いで食べるものだと思い込んでいた。おいしいとは言い難いその一椀を食べるたびに「本当のお茶漬けってどんなものなんだろうか」と思っていた。
正真正銘おいしいお茶漬けに出会ったのは、夫の生家だった。ごはんの上に、塩吹き昆布の正方形を丁寧に割いたものと、ほぐした梅干しのせて、ほうじ茶を回しかけたもので、簡素ながら洗練を感じさせた。「お茶漬けのもと」を使わないお茶漬けに目を見開き、そのおいしさに感心し、すこし遅れてやってきた羞恥の感覚。品格ある小倉屋の塩昆布と3連パックのお茶漬けの素の対比はいささか哀れであった。
お茶漬けは「簡単な、食事とも言えないもの」のように扱われているかもしれないが、今のわたしにとっては、しっかり手間のかかるもの、という位置付け。今朝は、めずらしくお茶漬けを食べた。家族が冷やご飯を蒸しなおして、きゅうりの和え物的なものをのせて、だしをかけた「だし茶漬け」を食べているのを見て、普段朝食を食べないわたしも「あ、お茶漬けを食べよう」とおもったのだった。
昨日友人からカラフトマスが一匹届いた。昨夜はお刺身とオリーブオイルで軽く焼いて、いつになく豪華な夕ご飯だった。60センチのマスは、一度には食べ切れないので、切り身にして塩しておいた。それを焼いて鮭(マス)茶漬けにしよう。
ここのところ、ぬか床の中に古漬けが溜まってきて、かき混ぜにくくなってきたので、それらをほぼすべて取り出し、「かくや」をこしらえる。昨日マスをさばくために切れ味が悪くなった包丁を研いだので、なめらかに薄く切ることができて、気分がいい。薄く切った古漬けを水にはなち、塩抜きする。
ご飯を蒸し、塩マスを焼いている間に、昨日畑で収穫したみょうがをこまかなみじん切りにして、ちょっとしけってしまっていた海苔をあぶりなおす。
それらすべてをご飯の上にのせて、ほんのすこし醤油をたらし、沸騰したお湯をまわしかける。お茶をつかうことはほとんどないので、正確には「お湯漬け」だ。
お茶漬けができ上るまでに、30分。一つ一つはたいしたことではないのに、なんでこんなに時間がかかるのだろう、と思う。「ご飯を炊いてお味噌汁つくるだけ」のときも「オムライス」のときも同じように感じる(両方とも1時間はかかる)。手際よく「30分で4品」つくる世のひとたちは、いったいぜんたいどうやって作っているのだろうか?
それにしても、お茶漬けってやっぱりおいしい。きっちり塩のきいた上品なマスを味わうのにはベストな方法だったと思う。加えて、鮮烈な香りの茗荷、だしに匹敵するうまみを生む海苔。ほんのわずかの醤油の香りとにじむような古漬けの酸味が後味を爽やかに回収する。お茶漬けは、組み合わせとバランスなのだ、とまたひとつ学びを得たのだった。