2020/6/6
画材や印刷ではどうしても出せないような色がいくつもある。新緑のひかりに透ける緑、柘榴のあやうさを含んだ輝き、それから透明感のある赤い果実。たとえば、ぐみの実、グロゼイユ(フランスの赤すぐり)、それからゆすらうめ。
ゆすらうめの名前は聞いたことがあるという程度で、実際に目にしたのは高知に来てからのこと。小粒で、味も色も、やわらかさも、近所で摘ませていただいたさくらんぼに似ている。甘さも酸味もうっすらとしていて、摘みながらたべるのがいちばんおいいしい、と感じさせる味。繊細でいたみやすいので流通には耐えず、そもそも買ってまでして食べたいものか、と問われればうなずくひとは少ないように思う。でも、だからこそ、この季節につやつやとしたその赤い果実に出会うことができたら、それはとても幸運なことだと思う。
あの透明感のある、わずか黄色が入った赤い色のことを、どう表現したらよいのだろう、とずっと考えている。たぶん、初夏のひかりの粒子がまざっているから、そして梅雨前の空気に守られているから。あるいは、ゆすらうめそのものが持つ色、というよりも、その季節の瞬間のエネルギーが映し出されているようにも感じる。季節全体が、ちいさなゆすらうめにその色を託しているような。
さらには、その色彩は強さとはかなさとの両方を持ち合わせている。強さは生命力、そして、はかなさは自然界のうつろいがすべてと響きあう瞬間、のこと。
ゆすらうめが木になっているようすを目にしたことはまだなくて、きっと思いもかけないタイミングで、引き合わせてもらえる日がくるにちがいない、と信じている。ちいさなひかりの実から生まれつづける世界は、思うよりもきっと、ずっと大きくて躍動感に満ちているのだから。