おいしいものってなんだろう?

 夏休みになって、元気いっぱいのこども二人が常に家にいるようになった(一人は祖父母宅に滞在)。家にいる、ということはすなわち3食+おやつが必要ということ。朝ご飯の数時間後には昼ご飯、のち、おやつ、すぐに夕ご飯、と一日ご飯作りに追われているという気すらしてくる。

 世の中の流れからすると随分とずれているかもしれないけれど、カップ麺、コンビニ弁当、菓子パン、袋菓子という選択肢はやはりない。それがどうこう、というよりも、とにかく選択肢にない。理由はいろいろだが、いろいろありすぎてもはや考えることもなくなった。

 誤解のないように伝えておきたいのは、「おいしくないから食べたくない」ということでは必ずしもないということ。べつに、グルメというわけでもない。そもそも、人からいただいたもの、ごちそうになったものは、ありがたさとあいまって、ほとんどおいしくいただく。おいしさには、関係性やその場の雰囲気、タイミングという要素が思う以上に含まれている。先日いただいた、神社のお祭りのお供えのブルボンのお菓子(懐かしのルマンド!)には感慨深い味わいがあった。味は同じはずなのに不思議。子どもが分けてくれた遠足用のコンビニ菓子のおすそ分けもにも、愛らしさという名のおいしさが含まれている。忘れ難いのは、山の中の集落に住んでいた時、猪の解体現場を見せてもらったときのこと。解体前の腹ごしらえはなんとカップ麺!狩猟とジビエ、そしてカップ麺のギャップがあまりにシュールで感動的ですらあった。そして、その儀式めいた時空間でのカップ麺には、再現不能なおいしさがあった。工場食品(造語です)はシチュエーション次第で一期一会のおいしさを生むが、それを家庭で実現するのはなかなか難しい。言うまでもないが、人の手で作られたもは、どんなものであっても、もう、無条件においしい。つくられた料理はその人そものものだから。

 というわけで、日々ごはんをつくっている。昼ご飯のテーマは「なんとか食べつなぐ」。その日は朝ご飯を炊かなかったので、昨夜の残りがわずかあるだけ。4人分には到底足りない。熱気に満ちたクーラーのない台所で 麺を茹でるのも 気が乗らない。朝、息子の盛大なるサンドイッチづくり(父親への誕生日プレゼント)に付き合ったばかりだったので、いささか疲れていたこともあって、とにかく「料理」をする気分になれなかった。自分だけだったら柑橘を絞った水とチーズひとかけらでやり過ごすところだが、ほかの家族はそうはいかない。そんなときにとっておきの方法がある。「なんでもいいから5種類お皿にのせてみる」と決めて、動き出すこと。とにかく、周りにあるすぐに食べられるものを見つけるのだ。

 そう思うと、ちょっと風向きが変わってくる。友人が育てた紫じゃがいもが目に入り、「昨日の揚げ油が残っているから、フライドポテトにしよう」と思う。こんなときに、なぜ、揚げ物?と自分でも思う。でも、そんな気分になったのだ。揚げ物は、熱い時でもなぜかできるのが不思議。タイかベトナムの屋台で料理しているような気分になる。

 まず、常温の油に切ったじゃがいもを入れる。揚げている間に②きゅうりの糠漬けを切る ③赤玉ねぎとオクラをスライスする(フライドポテトにのせる) ④昨夜の南蛮漬けの残りが少しあるのを発見。一切れづつお皿にのせる ⑤ゴーヤを切って塩もみする(大人だけ)。ごはんは2膳分ほどしかないから、蒸して、食べたいひとが各自盛りつける。

 風向きを変えること、流れをつくること。食事は日々のことだから、できるかぎり無理なく軽やかにつくりたい。時には「納豆ごはん」「お揚げごはん(油揚げをフライパンで焼き付けて醤油で味付け)」のようなシンプルを極めるごはん(ものは言いよう)も良いもので、こどもなどはその方が喜んだりもする。要はバランスで、それは、そのときそのときで、日々うつろう。毎日、準備して、食べて、の繰りかえし。ときにためいき、ときにおいしい!を重ねながら、この夏をのびのびとすごせたらいいと思う。