2020/7/30
夏になっても、冷たい飲み物はほとんど口にしない。アイスクリームにもさほど魅力は感じない。ところがどうしたことだろう、夏になるとすっかりコーヒーフロートに魅了されてしまう。
初夏から晩夏にかけて、幾度もコーヒーフロートを求めて外に飛び出す。
コーヒーが大好きというわけではなく、甘いものが欠かせない体質でもない。でもこの二つがあわさると、とたんに魔法がかかる。ケーキなら、苦めのキャラメルクリームやコーヒークリーム、カラメルカスタードプリン。お酒の効いたサバラン。
ケーキ屋さんに行くと、ショーケースの中から「苦みのあるもの」か「酸味の強いもの」を探す。甘いものは、この組み合わせで断然おいしくなるから。どちらも見当たらない場合は「いちばんお酒の効いてるケーキはどれですか?」と聞く。
お酒入りのケーキは、苦みに加えてアルコールのふわっとした、けれども強い感じが加わって、非常に具合がいい。だけれど、たいてい「どなたにでも召し上がっていただけるようにお酒は控えめです」と言われ、がっかりする。こどもやアルコールに弱い人もいるから、理解できなくもないが、一種類くらいお酒がきっちりきいたものがあったらいいのになあ、と思う(「お酒が強めなので注意!」と書いておいたらいい)。「だれにでも受け入れられる」ものは「これでなければ」、に決して行き着かない。
とうめいなグラスに入ったコーヒーフロートは、なんというか、ノスタルジックなファンタジー。 徐々にアイスクリームが溶けてきて、コーヒーとの境目があいまいになってくる、その流動的な感じも、うっすらにじむあやうさもいい。
眺めているだけで日常からはなれて、ちょっと別世界にきたようなあたらしい気分になる。飲み物の上になんと、つめたくてあまいアイスクリームがのっていて、さらに素敵なことにストローがついているなんて!(最近はガラスやステンレスのストローを使う店も多くなってきて、おいしさが数割増しになることが判明)。
コーヒーを一口飲んで、アイスを食べる。有無を言わせぬ組み合わせに、毎回、「おお」とひとりどよめく。はじめて飲んだときは、こんなおいしいものをどうしてこれまで今まで知らなかったのだろう、とひどく残念に思った。あるいは味覚の発達段階におけるベストタイミングで出会ったと捉えるべきか。
こどもがこのおいしさがわかる年齢になったら、かならずや「おいしいコーヒーフロート」のあるお店にせっせとつれていこうと心に決める。夏に「おいしいコーヒーフロートを飲みに行く」というセイフティネットが存在する人生とそうでない人生にはおおきな隔たりがあるような気がするから。
我が家からほど近い町に、素敵なコーヒー屋さんがある。いつ行っても空間がすっきりしているので、気分や流れを変えたい時には自然と足が向く。コーヒーはおいしく、でも苦いから、たいがい「ぬるめの牛乳入りコーヒー」を注文する。
おいしいコーヒーがあるのだから、あとはアイスさえあれば!という気持ちが夏になると毎年湧きあがり、何度かその気持ちを押しとどめるけれど、結局、「コーヒーフロートやらないんですか?」と聞いてしまう。そして毎回「コーヒー屋なので」とか「冷凍庫がちいさいので」とやんわりと断られて続けている。
「いつかここでコーヒーフロートを飲んでみたい」という気持ちと、「夏がくるたびにこのやりとりを重ねるのも悪くない」という気持ちが混じりあう。同時に、どうやらコーヒーフロートを飲みたいというだけではない気もしてくる。
おそらく、きっと、どんなに暑さにうんざりしていても「ここに来ればおいしいコーヒーフロートを出してもらえる」という場所が、ただちらばる星のように点在してほしいだけなのかもしれない。
わたしが夏に通うコーヒーフロートを出すお店は、本屋だったり、本屋じゃないけど本を売っていて、いずれもコーヒーは上質、アイスは手作り。「おいしいコーヒーフロート」と本の間にはなんらかの親和性があるのだろうか?
その日、コーヒーフロートを飲んでから買った本は2冊、阪口恭平の新刊『自分の薬を作る』(傑作!)と河合隼雄の『ケルトをめぐる旅ー神話と伝説の地ー』。本はどんなときでも味方になってくれるし、わたしにはコーヒーフロートという切り札がある。暑い、あつい夏もこの二つに支えられながら乗り切れそうな気がしている。