ワイルドな初夏の花

 春がすぎて、初夏になると花のようすがぐっと変わってくる。夏に向かう空気のなかで、伸びてゆくようにみずみずしく咲く花々。

  誕生日に友人からすずらんの花束が届いた。花も、つつまれた紙も、りぼんも白。彼女らしい、と思った。ふと調べてみると、その日はすずらんの日。お礼を伝えると「花が終わったら植えられます」とのメッセージが。包みをひらいてみると、なんと根がついていた。彼女からの贈り物には、ちいさな驚きが隠されていたのだった。

  山の上の方は、折に触れて季節の花をゆずってくださる。いつだったか、梅花空木(ばいかうつぎ)がいちばん好きだと伝えたら、咲き始めの頃と、それが枯れてくる頃に豪快とも言える長さの枝を切ってくださった。梅雨に入ってからは、濃い青の山あじさい、めずらしい斑(ふ)入りのどくだみ。そういえば、初めてお会いした時も立派な枝物をおみやげにと手渡されたのだった。

 花瓶というものがしっくりきたことはこれまでになく(アルヴァ・アアルトの花瓶だけは別。でも割ってしまった)、梅酒用の大瓶や保存用の瓶を使っている。

こどもの感覚は自由だから、学校からの帰り道に摘んだ花も、大人ならこうはしないだろう、という本能的な組み合わせでなるほど、と思わせられる。かつて「おはなあげる!」と手渡されていた花束は、気づくとジャムの瓶に生けてテーブルの上に置いてあることが多くなった(よそのお宅の花を摘んでいないといいけれど、とすこし心配)。つい最近は、玄関の外で、いくつもの器に水を張り、花を浮かべていた。インドに暮らしていた時によく目にした光景だ、となつかしく思った。

 花は、部屋の空気をさっと変えてくれる。自然の中に飛び出せないときは、生きている植物を生活の中で感じることで、自然とのつながりをささやかに、けれども確かに回復できるように思う。そして、うっかり忘れがちな水替えを、日々の習慣にするのがわたしの目下の課題でもある。