9月の畑

 8月下旬に種まきする気満々でいたのに、気が付いたら9月半ば。どうして、とおもう。毎年こうやって台風で調子が狂うのだ。

 関東育ちのわたしにとって、台風は「年に1回くらいくるもの」だった。高知に越したら、その台風の多さにおののいた。去年などは毎週新たな台風がやってきて、その激しさにおののいたのだった。

雨も、風も、その頻度も、とにかく力強く、その中で人はなすすべもなく、できることは、せいぜいすだれやよしずを取り込み、植木鉢を壁に寄せる程度。なるほどこういう土地なのだ、そのたびに高知の風土に圧倒される。

 暑いさなかに、日々少しづつ草を刈り、土を掘り返し、「さあいよいよ種まきだ!」というときに限って台風がやってくる。台風が過ぎ去ったら種まきしようと思い小休止。すると今度は気圧の変化で体調を崩す。涼しかったり、暑かったりが交互にやってきて、日々の暮しをつないでゆくのがやっと。とても畑どころではない。

 そして、気づくと大根の種まきのタイムリミットが近づき、おおいに慌てるのだ。畑に行くのは1週間ぶりだろうか。どきどきしながら急な石段を上る。数日あいただけでもそうとう素っ気ない雰囲気になるのに、こんなに間があいてしまって、いったいどんな顔をして挨拶すればよいのだろう。もうこれは平謝りするしかない。

 果たして畑はジャングルになっていた!たっぷり降った雨と、まだまだ高い気温を思えばた当然のこと。足元は茂みになっていて、マムシがでやしないかと気が気ではない。

 気づくと葛の花の甘い香りがしている。そう、葛の花もはやく摘まなければ、と思い石垣を見上げると、なんと!石垣の上にからみついていた葛がごっそりと刈られているではないか。

 そういえば、夏のはじまりにおとなりさんが「この木も切らないとねえ」とつぶやいていたのを思い出した。もちろんわたしが嬉々として葛の花を摘んでいるとは知らず、親切心から切ってくださったににちがいない。

 これも、畑からこんなにも足が遠のいていたからだ、としょんぼりとする。きちんとこの場所と心を通わせていれば、危機を察知できたはずなのに。ため息がばかりが深くなる。

 気を取り直して、周りに目をやる。管理や思惑からすこし離れてありのままの姿をみてみよう、と思う。茂るみどりの力強さ。もう100枚以上採ったターメリックからは、葉がつぎつぎと茂り、いつの間にかつややかな茄子がぶらさがっている。夏のあいだ摘んだ紫蘇には花がさき、すでに穂が付いている。しげみを掻き分けると秋茗荷がそこここに。秋茗荷だ。にらもいつの間にか伸びていた。

 雑草の伸びるスピードも、野菜が育つ速さもかわらない。この勢いにはただ圧倒されるばかりだが、草むらをかきわけ集めた野菜はのびのびとしていた。

 草はまた刈ればいい。葛は石垣の上にのぼって新たな地平を開拓してみよう。なんでも思い通りにしようとするからがっかりするのだ。そもそも天候や雑草や畑は思い通りに入ったためしがない。

 それでも草むらからみつける万願寺とうがらしのつややかさや林の中ににぽつぽつと見える赤むらさきの屑の花に、やはり完璧を見るのだった。

 その日は茄子をまるごと揚げた。うすい豚肉を茹でて、その上に採ったばかりのみょうがとおくらを薄く切って盛り、穂紫蘇をちらした。たれはたくさん採れたにらを使いたい。白ごまをすって、醤油とぽん酢、ごま油、細かく刻んだにらを混ぜてすこしの水で割る。豆板醤を入れようとおもったが、忘れてしまった。

 茄子はとろりとしていて、薬味は今日の落胆を一掃するほどに清冽だった。また明日から一歩一歩、すすんでいけばいい。ほんとうは、がっかりすることなどなにもないのだ。秋はまだはじまったばかりである。