2020/6/9
豆板醤(とうばんじゃん)は、なんとも捉えがたい存在でありつづけている。辛い中国の調味料?買ったことは1度か2度ある。思い出せるのは、たたき割ったきゅうりにごま油と醤油、そして豆板醤を和えたひと皿。おそらく夏だったと思う。おいしかったような気もするけれど、別に豆板醤でなくてもよいような気がした。そして、その小瓶は最後まで使われずに、いつのまにか姿を消していた。
麹の作り方を調べていたら、「種麹が残ったら豆板醤にしちゃいましょう」といとも気楽に書いてあるのを目にした。なんと、材料はたったの4種類。そら豆、唐辛子、塩、そして麹菌(米麹でも)。豆板醤ってそら豆からできていたんだ!と驚く。味噌を大豆のかわりにそら豆で作って、唐辛子を入れたバージョン。つまり、唐辛子のはいったそら豆味噌。
そこではっとした。もしかしたら、豆板醤が「そんなにおいしいと思えなった」のは、それがたまたまそれほどおいしくない豆板醤だったからではないだろうか?というのは、私は大人になるまで、おでんやそうめんを「あんまりおいしくないもの」だと思っていたのだが(実家は「おでんのもと」とか「瓶に入った麺つゆ」を使用していた)、大人になって、おでんや麺つゆを出汁から自作したら、飲み干すほどにおいしかったから。もしかしたら、豆板醤も同じ系譜に並ぶものなのかもしれない。
さらに数日後豆板醤づくりを後押しするできごとがあった。、畑をやっている友人と電話をしていたときのこと。彼女が「いまそら豆がすごく取れて大変なことになっている。豆板醤仕込まないと」と言ったのだった。私の手元には知人からいただいたそら豆がたさんあり、米麹もちょうど仕上がったばかり、というベストタイミングでもあった。
そら豆は貴重なものだから(私の畑では毎年失敗)、いくらたくさんあるからといって、加工するのはもったいない…やはり王道の塩ゆでか、あるいはそら豆を中に詰めたラヴィオリに仕立てるべきか、と考えあぐねていたけれど、このタイミングで豆板醤づくりに着手しなければ、もしかしたらこの先二度とチャンスはないかもわからない。だとしてもわたしの人生の大勢に影響はないかもしれないが、それでも、やはり私はぜひとも「豆板醤を作る人生を歩みたい」と心を決めた。
大仰なようだが、そういった一見些細に見えることが、実は人生の大きな分かれ道として仕組まれてような気もするのだ。特に、様々なタイミングが見事に重なっていることに気づいた場合は、ある意味、導かれているのだとみなすことにしている。豆板醤をつくる人生とそうでない人生の分かれ道。
そうとなったら、そら豆がすこしでも新鮮なうちに手を打たねばならない。さやから外し(楽しい作業)十分にやわらかくなるまでゆでる(二本指でつまむととすんなりつぶれるくらい)。うす皮をむいてボウルに入れ、熱いうちにフォークの背でつぶす。塩と粉唐辛子、麹を混ぜて、瓶につめる(自家製味噌もあればいれるとよいとあったので加える)。
味噌づくりは大量なので、いつも大騒ぎなのだが、それに比べたら全体量の少ない豆板醤はあっという間。そら豆を茹で始めてから20分程度、瓶の煮沸などをふくめても1時間かからなかったように思う。なんという軽やかさ!豆板醤づくりは、材料さえそろえばおそろしく簡単なのだという事実が世に流布していないのはなぜだろう?
さあ、でき上った豆板醤をどうやって食べよう、と意気揚々と作り方を読みかえしてみると「常温で半年熟成させる」とある。なんと、半年!1カ月くらいでできると思いこんでいて、夏の食卓に使おうと楽しみにしていたのに、がっかり。今年はきゅうりの苗も植えたので、20年ぶりに「たたききゅうりの豆板醤和え」を再現して、豆板醤の真実に迫ろうと意気込んでいたのに…
数日後、くだんの友人から小瓶に詰められた手製の豆板醤が届いた。彼女は麹はもちろん、そら豆だって自分で育てているから、それはもう格が違う。こちらも、ちょうど仕込んだばかりで、半年待たないと仕上がらない。材料はごくシンプルだけれど、素材も作り手も異なるのだから、味もまったく違うはず。
できあがりは、11月の中頃。ずいぶんと先のように思えるが、きっとあっという間に夏が過ぎ、秋がやってきて、そうして豆板醤が仕上がる日がくるのだ。作り手の違う2種類の比較もたのしみだし、そもそも「おいしい豆板醤」が存在し得るかどうかの検証が一番の目的。
手前味噌と同じで、やっぱり手前豆板醤はおいしいんじゃないかな、と想像しながら時々瓶を眺める。そうして、ひとつあたらしい醗酵食品を作るたびに、どこか遠くのまだ見ぬ場所に連れて行ってもらっているようだと思う。