2020/6/30
大ぶりのあじさいが我が家にやってきた。色はむらさきと青、白のグラデーション。葉はみずみずしく、茎はすんなりと伸びている。長さは1メートルほどだろうか、すぐに水切りをして、我が家にでいちばん大きな梅酒のびんに生けた。あ、いい匂い、と思ったらそれはあじさいではなくて、中に隠れるように入っていた半夏生(はんげしょう)の香りだった。見た目は限りなく地味なのに、芳香をはなつ。
高知に住む以前、京都の比叡山のふもとに1年半ほど住んでいた。京都は一般に言われているように、いや、それ以上に情緒が守られた土地だった。場合によっては凄みすら感じられた。花についていくつかの思い出を得た土地でもある。
神奈川で生まれ育って、20代の終わりまでを県内で過ごした。そして、桜とあじさいが苦手だった。桜の花が枝にびっしりとついて咲くようすがどうも肌にあわず、ついぞお花見には足を運ぶことはなかった。それが、どうしたことだろう。京都ではじめての桜を目にしたとき、「あ、きれい」と素直に感じたのだった。一瞬おどろき、戸惑い、気持ちを落ち着けてよくよく眺めると、私のイメージの中にある桜とは、ずいぶんと異なっていることがわかった。まずひと房(というのだろうか)につく花の数が少ない。一輪の大きさも小ぶりで、全体が精巧と言えるほどの絶妙なバランスの上に成り立っていた。枝の伸び方もうつくしく、当時住んでいた比叡のふもとの川べりに咲く桜の姿は、流れの音とあいまって、ことさら情緒深く感じられた。さすがにお花見にまでは至らなかったが、京都御所の桜も、また鴨川ちかくの桜もあんなに満開なのに、一様にある種の抑制、というか端正さが保たれていた。
桜の時期が終わり、新緑の季節は京都で一番すばらしい時期。透ける緑としっとりとした陰影、若葉の芽吹き、梅雨までのほんのわずかな祝福の瞬間。家の近くの木陰には、シャガの花が群生していた。むかしはシャガなんてどこにでもあったが、いまや貴重である、という内容が たしか白洲正子の本 にあったことを思い出した。さらに、京都で気に入ってゆずってもらった植物を関東の自宅に植え替えたら、思いのほか大きく育って興ざめだった、というようなことも書いてあったような気がする。そんなことをぼんやりと考えながら、あ、もしかして。と桜のことを思いだした。これは、京都と関東の土や気候の差によるものなのかもしれない、と。
桜がおわり、初夏のシャガにつづいて、梅雨はあじさいの季節。北に15分ほど車を走らせた大原の朝市で、あじさいを目にして、再び驚いた。あの、たくさんの花をつけてやや大雑把に咲く印象のあじさいが、この上なく繊細な色彩と佇まいで、バケツに無造作に入っていたのだった。茎はほっそりとしていて、花の色もつき方も、大きさも、私が知っているあじさいとはまるで違う。一言で表現するならば高潔さ、だろうか。まったくどうしたことだろう。思わず目のあった一束を手に取り、家に持ち帰った。当時は一時的な仮住まいだったので、手近にあった瓶にさし、あじさいをこんな風に咲かせるなんてすごい土地だ、と思った。
そして高知へ。山にちかい暮らしになったので、自然、目に入るのは山の桜。自然の素朴なのびやかさ。緑の木々にまざって花を咲かせる姿を見て、ひろびろとした気持ちになった。町におりてみると、桜は好ましい様子で咲いていた。過剰でも、洗練でもない、過不足ないすこやかさ。
高知ではじめて意識したあじさいは、集落の草刈りだった。まむしがでるかもしれないから気を付けて、と言われておそるおそる斜面を登りながら、手鎌で草を刈る。時折ひっそりとあらわれるヤマアジサイは、葉のつきかたも花も、繊細さと野生のしたたかさも兼ね備えていた。どの山あじさいも、輪郭がくっきりと浮かび上がるように見えたのが不思議に宇宙的で、夜空にちらばる星を彷彿とさせた。
当時住んでいた家の敷地に咲いていたあじさいは大ぶりで白、真っ白、といってよいくらいのすがすがしさ。大きな株だったが、咲いているときよりも切り花にした方がその良さが際立った。あちらこちらで目にしたあじさいは、いちようにのびのびした雰囲気があり、色も好ましく感じられるものが多かったように思う。
そして先日いただいたあじさいの枝。品のある佇まいとみずみずしさ。瓶に生けて床においたら、そのボリュームと色彩のゴージャスささにおどろいた。ゴージャス、といったらすこし違うかもしれない。あふれる生命力と植物の静けさ。色彩の多彩さといのちの躍動感。そんなすべてがひとつになった風景だった。
すこし前にいただいた山あじさいは濃い青で、簡素にして完璧。その存在感にすっかり心を奪われてしまった。挿し木にするには今がいちばんいい、ということで枝を数本分けていただいた。一本の枝をいくつかに切り分け、葉を半分に切って、24時間以上水につけてから土に挿すという。一カ月は土が乾かぬよう気を付けて。
自分の身の回りに、まさかあじさいを植えることになるとは、20年前のわたしには想像もつかないことだと思う。もしかしたら、生まれ育った土地で再びあじさいを目にしたら、かつてとはまた違う印象を持つのかもしれない。人生は、いつだって思いがけないふうに展開するのだ。