今年のすもも

 今年は、枇杷も梅も、すももも、とにかく果実の実りがすくない。豊作の年と、不作の年が交互にあるという話も聞くし、今年は暖冬だったから、という説もある。

 そうはいっても、枇杷はあちこちからおすそ分けいただいたり、川岸でとったりして、結局ずいぶん食べたような気がする。梅は川のほとりでほんのすこし拾ったきり。今年は梅干しはつくれないかもしれないが、去年まずまずの量を仕込んだので、一年分はなんとなかりそう。

 すももは、木になっているようすがいちばん心躍る果実だと思う。のびやかに広がった枝に鈴なりの赤い果実を目にすると、これ以上の幸福の風景があるだろうかと感じるほど。光線に透けた緑に浮かぶ、赤いひかり。洗って大きな器に入れてテーブルの上に置くと、透明感のあるみずみずしい色彩が、からだに飛び込んでくるように感じる。

 一昨年は、すももの大木の持ち主との出会いがあり、となりの集落で山ほどとらせていただいた。品種や木によって、甘いもの、酸味の強いもの、皮に渋みがすこしあるものと多様。そのまま食べるのはこの木、ジャムには酸味の強いもの、とすももの山をよりわけながら、我が家だけではとても追いつかないので、おすそ分けしたり、果物に目がない友人に箱につめて送ったりもした。 無農薬なのもありがたい。

  今年は枇杷がすくない、と気づいたときからなんとなく予感していたが、やはりすももの収量も少ないようで、それは枇杷の比ではなかった。一昨年は何十キロもの実がなった場所でも、木の上にちらほらあるだけ。少ないうえに、ハクビシンに食べられてしまったそう。ひどく落胆する私に、持ち主の方が、手の届くところにあるちょうど食べごろのすももを手渡してくださった。宝物のような、4つのすもも。

 そんな中、ある日「すももをお持ちしましょうか」との連絡をいただいた。聞けば、私が数年前に一度採らせていただいた木のものだという。小ぶりで、皮が緑がかっていて、中は真っ赤なワイルドなすもも。夢中になって収穫した数年前のあの日の記憶があざやかによみがえった。後日、持ち主の方にお礼の電話をさしあげると「もっとなったら今年も採りにきてもらえたのに」と残念そうにおっしゃった。

 いただいたすももは、気が付いたらあっという間になくなった。大人も、こどもも大好きで、風通しの良い盆ざるにのせておけば、すぐに手を伸ばせるのも自由でいい。最後のひとつを指差して「これたべていい?」聞くこども。空になった盆ざる、不在の存在感。もしかしたら、これが今年最後のすももかもしれない、と思った。

 豊作の年は、方々からお声がけいただいて、時間と体力の許す限り収穫し、家中が果物だらけになる。その後に続く加工や、おすそ分けにも忙しくなり、文字通り果物中心の日々に。それがまたたのしみだったりするのだが、一方不作の年は、数個のすももを大事に食べ、豊作だった年を懐かしく思い出し、そして、暮らし回りもしずかに進行する。

豊作の年、あふれるほどのすもも

 不作の年にあたって、「たくさんとれないのもまたよいものだな」と感じたのはちょっとした驚きであったが、自然のサイクルと言うのは、そんな意味でも調和がとれているのかもしれない。

 近所の良心市にいけば、大抵の季節のものは手に入るとおもうが、山のふもとに暮らし始めてから、年々「欲しいものを欲しい時に買う」という気持ちが薄れてきている。ゆずっていただいたり、「取っていいよ」とお声がけいただいたり、そんな出来事自体が何にも代えがたい贈り物のように思える。なにかしらお礼に差し上げられるようなものを用意するのも楽しい。たくさんいただいた果物でできたジャム、今年はじめたぬか漬け、この春つくった紅茶を小瓶につめたもの。どれもささやかなものばかり。

 夢見ているのは、畑をもうすこし広げて、果樹を育てて、その実りをお返しすること。そんな生活を願ってはじまった高知の山のふもとでの生活も、6年目。歩みは遅々としているが、10年、20年後にどうか実現できますように、と思いながら、日々の暮らしを重ねている。そして、やっぱりもうすこしすももを食べたいなあ、と思う週末の朝なのだった。