うつわのお直し

 そそっかしいので、うつわを割ってしまうことが多い。
そのたびに、気落ちする。後悔と、うつわへの申し訳なさ。

 20代の中頃から作家の個展に足を運ぶようになった。時間かけて、じっくり眺めたあとの、「これ」という一点を選ぶたのしさと緊張感。一期一会の感覚。さらに、器を日常で使ってゆくなかで、気づきやよろこび、学びがそのあとに続く。

 気に入った器は頻繁に使うから、どうしても欠けたり割ったりすることが多くなる。というのは不注意の言い訳にすぎないが、とにかく気に入った器ほど取り落としてしまうことが多い。

 金継ぎという修理の手法があることは知っていた。しかしわりに高価で、湯飲みひとつならともかく、手元にある割れた器は10枚を下らない。プロの金継ぎ師お願いすることは、とてもかないそうにない。

 高価、といってもそれは当然のこと。器を継ぐには、想像を超える細かい作業と集中力と注意力、そして時間がかかる。修理してもらう側はその過程を知る機会がないので、値段だけで判断しがちだが、聞けばとにかく気の遠くなるような作業である。

 そんなとき、友人が器のなおしを始めたと聞いた。さっそく手持ちの割れた器を託した。

 待つこと半年ほど(いや、もっとだっただろうか?)。すっかり忘れたころに「うつわのなおしがおわりました」との連絡をもらった。

 かごの中からひとつづつ取り出されたうつわは、なつかしく、そして思いがけずあたらしい空気をまとっていた。 

 器のなおしといえば「金継ぎ」が思い浮かぶが、材料が高価で、手間もかなりのもの。「日常につかう器だから、ハードルが高すぎないように」と今回は漆仕上げで。

 もどってきた器は、よりいっそううつくしく、ますます愛着がわいてくる。

 器を手にした瞬間、使い続けてきた日常、そして直し手の誠実なしごと。
それらがすべて、器のなかにものがたりとして流れている。

 もとより「よそゆき」の感覚をあまり持たない。気に入ったら、いつだって着たり、使ったりしたい(大事にしまい込んだら最後、その存在をわすれてしまう)。普段の暮らしの繰り返しの中で、ものとの関係性は生まれてゆく。

 大切な器だからこそ、日々の暮らしの中で。 そして、お直しは、そんな時間を支えてくれる心のよりどころとなりえる。

 数カ月ぶりに手元に戻ってきた器で、その日はじめての紅茶を飲みながらそんなことを思う朝なのだった。