2020/7/10
明日は20人分のカレーをつくるというのに、我が家にあるものといったら赤玉ねぎとにんにくと、ヨーグルト、そしてスパイスくらい。これではいくらなんでも無理だろう、と近所でオーガニック農家を営んでいる友人にSOSの電話をかけた。
「野菜、いろいろありますよ!」の声にほっとして、すぐさま大きな籠と、米袋を抱えて車を走らせること10分あまり。作業場には枝豆の山。繁忙期なので、お手伝いの人たちもいて、なごやかな雰囲気の中、さやがどんどん枝からはずされていた。
枝豆はかごにたっぷりと、大きなかぼちゃをふたつ、持参した米袋にはピンクと紫のじゃがいもを好きなだけ選ばせてもらった。B品というけれど、味はもちろん遜色あるはずもなく、見た目もどうして?と感じるくらい。きれいに整ったものよりも、むしろはねられてしまったものの方に共感するたちなので、そんなものばかりを買わせてもらえるのはありがたい。
ずっしりと持ち重りのする籠をかかえて家にもどるやいなや、枝豆の調理に取りかかる。枝豆やとうもろこしは収穫してから一瞬でも早く食べたほうがおいしい。その日のうちに採った枝豆を食べることのできるなんという幸運!教わった通り、両端を切り落として(中に塩がきちんと入るように)、油をひかないフライパンで蒸し焼きにして、最後に水と塩で味をつけると、塩ゆでとはまた違った目の覚めるようなおいしさ。家族で「おいしい!甘い!」と大騒ぎしながら、わたしはどんどん枝豆をフライパンに投入し続ける。なにしろ3キロもあるのだから。
かぼちゃはポタージュに。皮は半分くらいざっくりとピーラーでむいて、適当な大きさに切ってひたひたの水でゆっくり煮る。途中、塩を加え、すっかりやわらかくなったらミキサーにかけてなめらかにしてから鍋に戻す。水でちょうどよいくらいにのばし、塩で味を調える。今回牛乳は少しだけ入れた。牛乳をたっぷり入れたり、生クリームやバターを加えるとこくが出てひとくちで「おいしい!」の味になるが、この梅雨時の身体にはやはりすこし重たい気がする(秋冬にはぴったり)。大きなスープボウルに何杯でも飲めるくらいのイメージで仕上げる。
ピンクのじゃがいもは鍋で蒸し焼きにしてからざっとつぶしておく。 (方法はこちらのポテトサラダと同じ) フライパンにオリーブオイルを注ぎ、にんにくのみじん切りを入れ、弱火にかける。その間にベーコンを粗みじんにして、つぶした黒胡椒とともにフライパンに加える。火をすこし強め、ベーコンからしっかり油が出てかりっとなったら薄切りにした赤玉ねぎを入れる。半分くらい火を通ったところで塩とビネガーを加え、じゃがいもの入っているボウルにいれて、混ぜればドイツ風の酸味のあるジャーマンポテトサラダのできあがり。
ベーコンの油がじゃがいもに浸み込むと、すごくおいしくなる。黒胡椒多め、赤玉ねぎ多めで半生状態、ビネガーの酸味をやや効かせるのが大事。ベーコンがない場合はビネガー少なめの方がバランスがいい。パセリのみじん切りや粒マスタードがあったらなおいい。
ついさっき畑の横で笑顔とともに渡された野菜が、あっという間に夕食になった。彼らの作る野菜は、誠実の味がする。野菜の味の濃さや甘さといった、「おいしさ」の向こうにある透明感とすこやかさ。
農業は、肉体的にも精神的にもほんとうに大変な仕事だと思う。わたしのどこまでも気楽な家庭菜園とは当然ながら訳が違う。気候変動の影響に翻弄され、育てるだけでなく、土の準備、収穫、選別、包装、梱包、それから発送、時には町に出ての対面販売も。ざっと想像できる分だけでもこれだけある。そして世の中のニーズや動向をキャッチする感度や先を読む力。さらにそれをオーガニックで。どれだけの手間がかかり、知恵が絞られていることか。
食べることは、生きていくための根本。作物を作ってくれる人がいなければ、わたしたちはいったいどうやって食べてゆけばよいのだろう。生産者は、わたしたちの生活を支えてくれている存在なのだとあらためて思う。
電話をかけたときの「野菜、いろいろありますよ!」のさわやかな声からはじまって、じゃがいもを選びながらのほんの数分のたのしいおしゃべりまで、一連のすべてがお皿の上に乗っている気がして、なおいっそうしあわせな夕食になったのだった。そして明日は同じ材料をつくって盛大にカレーをつくる。料理の日々は、こうやって続いてゆく。