畑の野菜 ―7月―

 今年の梅雨は、台風並みの雨が続いている。打ちつけるような雨にひるむことも、夜中に雨の音で目が覚めることもめずらしくない。各地で被害が広まらぬよう、ただ祈るような気持ちでいる。

 畑もぬかるみ、水浸し。夏野菜の苗がうまく育つかどうか気になるが、なるようにしかならない。なた豆の支柱を立てるのをのばしのばしにしていたのは失策だった(毎年同じことを反省している)。

 すこし雨が上がった光さす夕方、久しぶりに畑に出た。草と里芋の葉はおどろくほどうるおい、勢いを増していて東南アジアに足を踏み入れたような気分。どうせぬれるからと素足に履いたビーチサンダルが、歩くたびに土の中に沈んでゆく。

 なにか食べられそうなものはないかな、と探してみると、思いがけずイタリアンパセリが元気に育っていた。採り時よりは数日早いけれど、きゅうりが二本。つややかなツルムラサキは天気などおかまいなしで、むしろぐんぐん育っていているようすが心強い。つるの先のやわらかな部分と大きく育った葉っぱを摘み取る。梅雨が明けたら収穫しようと思っていたじゃがいもを、こんな雨ではどうなっているだろうとすこし掘ってみると、土の中から赤い肌がいくつか顔を出した。状態はベストではないけれど、十分に食べられそうでほっとする。

 雨にも負けず、勢いを増しているのは南インド料理に欠かせないカレーリーフ。さすが熱帯の植物で湿気に強く、いくら雨が降ろうともへこたれるどころかますます元気になっている。かつて住んでいた南インドの高温多湿の激しい気候とひとびとのたくましさが、カレーリーフと一瞬、重なる。

 きゅうりはぬか床に入れて、イタリアンパセリはタブレに。タブレはクスクスという小麦から作る粒状の食べ物。モロッコでは煮込みをかけて主食とし、フランスではたっぷりのミントやパセリと野菜を混ぜて、冷たいサラダにするのが一般的。クスクスは手に入りにくいので、かわりにいただきもののもちきびでつくってみたら思いのほかおいしかった。つるむらさきはさっと湯がいて、そのまま水にとらずに、あたたかいまま醤油をすこしたらして茹で立てを食べるのがいちばんおいしと思う。じゃがいもは、シンプルにお味噌汁、あるいは揚げてフライドポテトにしても。

 なにもないように見えても、家の中にも、畑にも、よくよく探せばなにかしらはある。それらをすくいあつめて、ほんのすこし考えて、工夫して、ささやかな食卓にするのはたのしい。あるもので、どこまでできるかというのはひとつの即興であり、挑戦でもある。「これしかない」という制約は、ときに眠っていた力を呼び覚ます装置にもなりうる。

 今週いっぱい、雨が続く。その後は、きっと突然夏になる。水をたくさん含んだ水に突然の高温。この過酷な気候の変化についてゆけるのはいったいどの野菜だろう。むせかえるような湿気に包まれた畑に立って、このあいだ聞いた言葉を思い出した。

 「生き残るのは、強い者でも、賢い者でもなく、変化できる者だ」というような内容だったと思う。「変化」は「適応」と言い換えたらわかりやすいだろうか。

 この先何が起こるかわらかない現代にあって、これまで成した財も、地位も、知識も、こうなるだろうという見通しも、あるいはあまり役に立たなくなる日が来るのかもしれない。来たるべき世界の変化のなかで、すこやかに生活できるように、地に足を付けて、毎日をのびのびと生きてゆけたら、と思う。結果のために何かをするのではなく、その都度ささやかに選びとってきたプロセスが、おそらく、たどりつくべき結果となって立ちあらわれるような気がしている。

  今回の激しい天候に、どの野菜が適応して生き残るのか、時がたてば自然にあきらかになっていくので、ただ待つことにしようと思う。