2020/8/4
高知は柑橘王国。文旦、みかんはもちろんのこと、特筆すべきは酢みかん文化。「酢みかん」とは、ゆずやすだちのように、果汁をしぼって使う柑橘のこと。すし酢や酢のもの、お刺身にも「酢みかん」をたっぷりと使う。料理に柑橘果汁を絞るといったら、さんまにすだち、フライにレモン、くらいしか経験がなかったので、この酢みかん文化を知った時はたいへん興奮した。
酢みかんには色々種類があって、ゆず、すだち、かぼす、直七、それからブシュカン。ゆずは10月下旬ごろから収穫が始まり、一年分を絞って保存する。すだちはお隣徳島、一方かぼすは大分特産だが、こちらも高知でちらほら見かける。直七(なおしち)は高知ではよく使われるテニスボールくらいの酢みかんで、すっきりとした酸味で、高知では普通に使われている。そしてブシュカン。
同名で「仏手柑」という先端が手のように分かれた鑑賞用の柑橘があるが、全く別物。 一年の中でいちばん早く直売にならぶのがブシュカン。 今年は7月のおわりごろだった。 まだ小さくて、大きさはピンポン玉くらい。緑が濃くて見るからに硬そう。出始めのブシュカンは青ゆずと同様に、皮を使う。どのように使うのかと土地の人に聞くと、「皮をおろしてつかう」らしい。おろし金で削って素麺や刺身の上に散らすのだ。
そういえば、と思う。日曜市の冷やしそうめん屋さんでは、仕上げに青い柑橘をおろし金ですっていた。ところてんやさんでもおいしいだしにひたったところてんの上にブシュカンの皮が散らされていた。おいしい魚が食べられることで有名な大正市場では、路上で新子(メジカの幼魚)が次々とさばかれ、お皿にならべられた最後にブシュカンをがりがりと白い部分が見えてもかまわず豪快にすっていて、そのアジア的風景が衝撃だった。
どうやらブシュカンの皮を使う文化は高知に深く根付いているらしい。たとえば、家庭でそうめんを食べるときには必ずブシュカンの皮を散らす、という話も聞く。徳島育ちの友人は「すだちの皮をおろして豆腐にかける」とも。関東育ちのわたしにはそれが新鮮で、食文化の力を見せつけられたような気がした。日本中の食材が集まる首都圏に、土地で食べ継がれてきた食材や料理がほとんどないように感じていたのでなおさらだった。
ブシュカンはじつに個性的な風味を持つ。皮を削ってつかうのはまだおぼつかないが(習慣がないのでつい忘れてしまう)、果汁を絞るのは随分と慣れてきた(などと言うと高知のひとはなんのことかと首をかしげるだろうか)。そもそも酸味が好きである。揚げ物、肉、魚には薬味が欠かせないのと同じように、酸味もぜひとも必要。
ごはんの上にちりめんじゃこをのせて、ブシュカンをしぼってお醤油をすこし。すし酢の半分を酢みかんにすれば香り立つ酢飯に。かつおのたたきにはたっぷりと薬味をのせて柑橘を絞る(直七がスタンダード?)。しめ鯖を作るときも酢みかんをたっぷりと。さっと焼いた薄切り肉には大根おろしを添え、柑橘を絞りながら食べる。夏の間常食する「夏ごはん」や「かくや」の酸味付けにもブシュカンを。南蛮漬けの酸味にも合うはずだ。もちろん焼魚や干物には柑橘をかならず絞る。
夕暮れどきにビールを飲むとき、ひときれの柑橘をしぼれば南国で飲むビールのようにかろやかさが生まれる。もともと酸味のない梨や柿にも酢みかんを絞るとすばらしくおいしく変身する。お菓子作りにも重宝するし、ブシュカンは冬になると熟れて甘くなるので皮も実もつかってジャムをつくる。とはいっても、お菓子もジャムも夫の担当、わたしはほとんど作らない。書き連ねたらきりがないくらいに酢みかんは世界をひろげてくれる。
夏になると、直売に酢みかんがつぎつぎと出現する。ごく良心的に値付けされているので、よさそうなもの(見た目が悪くていかにも無農薬っぽいもの)を見つけると、つい何袋も買ってしまう。家に帰るとすぐに袋から出して、籠に山盛りにして家のあちこちに置いておく。様々な種類の酢みかんあふれる光景を眺めるとすっかり満たされた気分になる。小包を送るときには山盛りの籠のなかからいくつかを選び、緩衝材がわりの新聞紙の上に、封をするように最後にのせる。出先に持ってゆくおみやげやお裾分けのお礼にも、「お家にあるかもしれないけれど」と思いながらつい添えてしまう。
長野や北海道には柑橘がないと友人から聞いておどろいたが、気候の違いを考えれば当然か。なので、酢みかんがふんだんに出回るようになると、何種類かをとりあわせて送るのが毎年の習慣となっている。躍動感あふれる酢みかんの季節がはじまりつつある。